不便だからこそ、誰かの仕事や居場所がある。手間暇をかけて、仕事や居場所を作りつつ、価値ある農作物を!
デジタル機器のなかった農耕社会は、今に比べればだいぶ不便が多かったでしょう。
不便が多いということは、そこに「誰かの作業」が発生することになります。
ここで発生している「誰かの作業」は、現代から見れば、技術によって省くことができる、単純で、無駄の多い仕事なのでしょう。
しかし、不便な昔では、誰かがやらなくてはならない、重要な仕事だったのです。
産業技術の発展により、そのような単純作業が、失われていったことになります。
その分、別の作業にリソースを注ぐことができるため、技術がどんどん進歩していくことができます。
でも、そのような<技術が高度に発展した社会>では、生きにくくなる人も出てきます。
高度な技術を身につけ、高度なコミュニケーションでやりとりするのは、疲れることです。その教育や素質に恵まれなければ、適合していくことができません。
そのように、現代社会に合わず、孤立していく人が、増えていくでしょう。
では、どうすればいいかというと、もう一度、手間のかかる作業を取り戻すというのは、いかがでしょう。
農作業は、その筆頭です。
極めて効率化を図った挙句が、農薬まみれ、遺伝子組換えの、安全とは言い難い作物なのであれば、手間暇をかけて安全な美味しい作物を作ることで、対抗すらできます。
そこには、効率化しきれない「誰かの作業」が多く発生し、つまり、いろんな人にいろんな仕事や居場所ができるのです。
だからと言って、高度で便利なデジタル機器を、端からあてにせず、「不便こそ正義」というスタイルにも疑問です。
いろんな人に、仕事や居場所を保証しつつ、より安全でおいしい作物をつくるために、利用できるテクノロジーがあれば、ガンガン使えばいいのです。
人間が主体。
技術はそれを支えるもの。
その順番を間違えなければ、いいものができそうです。
手間の係り作業を取り戻すというより、手間暇をかけて、より価値のあるものを生み出していくという姿勢の方がいいでしょうね。