あたかも我を忘れたかのように、子どもと遊ぶ
子どもは、子ども同士で遊ぶときと、親と遊ぶ時とで、なんか違う。
同じ公園で遊んでても、同じ家の中で遊んでても、兄弟に求めることと、親に求めることは、なんか違う。
3歳に満たない子でも、そうなのです。
なんでかな〜、と思っていたのですが、それはきっと、子ども同士の方が、「似たもの」だからでしょう。
子どもは、生きていく中で、身の回りから積極的に学んでいきますが、とりわけ「自分に似たもの」から吸収することは多い。
それは、自分にもできる(マネできる)ことが多いからです。
マネすることで、自分の体や道具の使い方を知り、世界が広がっていきます。
当然、大人よりは、子どもの方が、自分に似ている。
だから、親といるときと、子ども同士でいるときは、なんか違うのだと思います。
なんていうのは、ただの一側面でしかありません。
とりわけ、子ども同士でいるときに違うのは、「我を忘れて遊ぶ」ということができるからでしょう。
大人は、大人として構えてしまいます。人目があれば、なおさらです。
大人は、子どもを守らなければならないし、教えなければならないし、必然的に「大人の構え」を要請されます。「我を忘れて」遊んでは、ちと具合が悪いのです。
それでも、すぐれた保育者、養育者は、あたかも我を忘れたかのように、子どもと遊ぶことができる。ということがあると思います。
そうすることで、子どもとの情動的な交流を図るのです。
子どもも、どうやら「自分に似たものだ」と感じてくれて、親愛を寄せてくれるでしょう。
構えてばかりでは、情動的な交流ができません。
僕は、子どもも遊ぶときは、どっぷりと子どもの世界に一緒に浸かることを、心がけたいと思っています。