「正しいやり方」の難しさを、食事支援から考える
知的障害のある子に、「正しい食事の仕方」を教えるのは、難しいな、と思うことがあります。
それは、「正しい食事の仕方」が、一様ではないからです。
例えば、ライスの上に、おかずを全部のっけて食べたい子がいます。
おかずのお皿から、ざざーっとライスの上に流し込むのです。
これは、「正しい食事の仕方」でしょうか。
例えば、「まあ、おかずの種類によっては、いいんじゃない?」という考え方があるとします。
でも、「おかずの種類によって許す」が、職員によって異なるのです。
「それはダメだな。」
「これならまあ、いいか。」
当然、職員によって許されたり、止められたりすると、本人は混乱します。
じゃあ、ライスの上にのせていいものとダメなものをリスト化しておくか?なんてことになると、ちょっと際限なくなるし、そこまでしても「正しい」かどうかは、分かりません。
「いや、ライスの上にのっける量が問題なんだよ。」
「少しだけなら、いいんじゃない?」
という考え方もあるかもしれません。
でも、「少しだけ」って、どのくらいでしょう。
職員によって違うし、知的障害のある本人にだって分かりにくいです。
どの程度が、「正しい」のでしょうか。
のっけていいものとダメなものを分けても、本人にとっては、なぜ許されたり止められたりするのが分からない。
のっける量を少しならいいとかダメとかも、本人にとっては、分かりずらい。
「じゃあ、全部許すのか、全部止めるのか、どっちかにするのが一番わかりやすいでしょう。」
なんて結論になったりすることもあります。
それでも、それが「正しい食事の仕方」なのかは、分からないままです。
人によっては、どちらにしても「人権侵害だ!」と言われかねません。
本人の好きなようにしてもらうのも、責任放棄だと言われるし。
本人の好きなようにさせないのも、無駄な制限だと言われるし。
食事に限らず、「正しいやり方」を教えるのは、難しいことだと思います。
あらゆることに言えます。
いったい、何が正しいのかは、一様ではないのです。
多くの人は、数々の経験をしていくうちに、「だいたいのあんばい」を判断し、たいして問題にならない程度には、生活習慣を身に付けるのでしょう。
しかし、知的障害をもつ子、あるいは発達障害の子には、「だいたいのあんばい」がとても分かりにくいのです。
だから大人が教えなきゃいけないのですが、「正しさ」って、難しいんですよね。
「間違って」犯罪を犯すにいたる子だっているのですが、「じゃあどうすればよかったのか。これからどうすればいいのか。」となると、悩んでしまいます。
正誤の問題。
善悪の問題。
本人や周りの支援者を、 一概に責める気にはなれないのです。
支援者としては、せめて独断ではなく、同僚と価値観をぶつけ合いながら、「さしあたっての正しさ」を決めて、本人へ教える。
その判断を、理由とともに引き継いでいく。
そうするしかないかな、と思います。