軽度の知的障害がある人にとっての居場所

とある団体が、障害を持った方にとっての居場所づくりにチャレンジしています。
もう2年近くなります。
僕も少し関わっているので、その居場所の特徴などを書いてみたいと思います。
その居場所(仮に、「花咲き」と名付けます)には、主に軽度の知的障害者が集まります。
ですので、今回は、軽度知的障害者に絞った居場所論にします。
知的障害者にとって、居場所の確保は大きな課題です。
なぜなら、知的障害があるがゆえに、
- 人とつながること(友達づくり)が難しい
- やりたいことを実現しにくい
- 趣味を拡げにくい
- 自由時間を、適切に過ごす方法を見つけにくい
- 悪意を持った大人が近寄り、だまされやすい
というような側面があるからです。
もちろん、みんながそういう側面を持っているわけではありません。
僕の知っている限りの軽度知的障害者の側面を集めると、このような特徴があるかな、と思います。
だから、知的障害者の生活は、住まいと学校・職場の往復だけという生活になりがちです。
多くの人が楽しみとする“サードプレイス”が非常に乏しいのですね。
余暇活動が乏しいと、ストレスもたまりがちで、時間を持て余し、あまりよろしくない事態にもなりかねません。
そういったところに悪意を持った大人が近づくと、いいようにやられてしまうこともあります。
ケアをする家族も息抜きができません。
本人の生活が充実するように、また家族も行き詰らないように、知的障害を持っていてもゆったり過ごしたり楽しめたりする居場所。福祉事業所が組んだプログラムにのるのではなく、福祉サービスを受けるのではなく、ただ気軽に寄れる場所。
そういう居場所が求められています。
主に軽度知的障害者がメインとなって居場所となっている「花咲き」。
その居場所には、次のような特徴があります。
- いつも決まった場所である。
- おおむね決まったメンバーである。
- おおむね決まったペース(毎月第3木曜日)である。
- おおむね決まった流れがある。
- あたたかくゆるやかに場を整える支援者がいる。
- ただ、いるだけでもいい。たくさん話してもいい。
これらの特徴が、軽度知的障害者の居場所にとって、必要な要素ではないかと思います。
つまり、
いつもと同じ場所に、
いつもと同じ人がいて、
いつもと同じ流れがありつつも、自分なりの過ごし方が許される。
困った時には、応えてくれる人がいる。
知的障害があるがゆえに、いつもと同じ部分が多いと、安心につながります。
困った時にとれる解決方法の幅があまり広くないため、やはり支えてくれる人がいると助かります。
ただしこれらは、知的障害がなくても、人が安心するための大事な要素ではないかと思いますが。
こういう居場所がいい具合にできたとしても、継続して利用できるのは、親和性の高い人じゃないかと思います。いろんな場所や人に、馴染みやすい人。
反発性の強い人は、場所を用意しても、たぶんなかなか来てくれない。
なんというか、歩み寄りが難しく、場の雰囲気に合わせることがなかなかできなくて、「つまらねぇ」で、おしまい。
みんなが集まれる場所で、一緒に何かをやるというのが難しい。
個別に丁寧に付き添ってあげる必要があると思います。
たぶん、生まれもっての反発性というのはそんなになくて、軽度の知的障害があるがゆえに、戸惑いが多いわりに期待されることがキャパ以上で、自分の気持ちを分かってもらえず、周囲と馴染めず、反発することでしか自分を表現できなかった。
反感をかうことでしか、周りの人が関わってくれなかった。
そのように生きてきたというような事情が往々にしてあると思います。
いわば、二次障害ってやつですね。
だからまずは、個別の理解者であり、同伴者という存在が必要ですね。
「何にもしなくていいんだよ。いてくれるだけでいいんだよ。」
「あなたの願うことを、すべて叶える事は無理だけど、あなたの気持ちは全て受け止めるよ。」
「どうしていいのか分からずに不安で恐ろしかったのに、友達も大人もどんどん離れていった。1人でいるしかなかった。自分だけの力でどうにかするしかなかった。
でも、わたしはそばにいるよ。一緒にやっていこう。」
そのように、その人の世界にまず1人、人が現れることから始まるのだ。
そこから、居場所へやっとつながる。
障害があるということは、つまずきやすいということです。
つまずきやすい人でも過ごしやすい場所は、どんな人にとっても過ごしやすい場所になります。
僕は最近、新しく、子どもや青少年の居場所づくりの団体に関わり始めていますが、そういった「知的障害をもつ人にとって」という視点から、気付けるところを活かしていきたいと思います。